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令和元年講習会(11月)

令和元年11月26日(火)、講師に池様をお招きして講習会が開かれました。

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続き


最終回となる今回は「伝統の継承~海軍航空から海自航空へ~」をテーマに、海軍航空の歴史から、現在の海自航空へ受け継がれている教育や伝統についてのお話でした。

海軍航空の歴史は、明治から続く海軍搭乗員の本質、教育体制、調査研究態勢、養成制度の視点から時系列で説明していただきました。

海軍の歴史を4つの視点よりまとめます。

<海軍搭乗員の本質>
明治45年、海軍はモーリスファルマン式水上機(仏製)2機、カーチス式水上機(米製)2機を購入し、海軍として初めて飛行を行いました。
大正時代には、世界初の空母「鳳翔(ほうしょう)」を竣工しました。世界にはこの時、飛行機を飛ばすだけの母艦はありませんでした。
また、士官搭乗員、下士官搭乗員の教育訓練を開始してから、「鳳翔」への離着艦に成功しました。
さらに、洋上での航空機の運用を目的として、空母「赤城(あかぎ)」と「加賀(かが)」を竣工しました。
昭和に入り、航空母艦から発艦する零式艦上戦闘機を開発しました。
以上より、搭乗員は、洋上での作戦、運用を基本としています。ここで搭乗員として必要な資質は、海という大自然のなかでどのような状況においても柔軟に対応するための動作、躾です。
海軍搭乗員の本質はシーマンシップとして受け継がれました。

<搭乗員教育体制>
大正5年、航空技術研究委員会を解散、横須賀海軍航空隊を開設し、航空隊練習部にて、士官搭乗員の教育を開始しました。
教育のなかでは、センピル飛行団という日本の海軍の求めに応じ、航空技術を指導するために来日した、イギリス空軍の教育団を招へいし、様々な飛行訓練を約5000時間行いました。
内容としては、基本的な戦闘機の操縦、水上機の操縦などのほかに、機上作業専門の偵察員としての教育も重視されました。
昭和には、航空隊練習部を練習航空隊に改編し、これに横須賀海軍航空隊、霞ヶ浦航空隊を指定しました。
その後、様々な部隊から連合航空隊を作り、海軍練習連合航空総隊を設置しました。
ここでの教育は、学校制度のように全てをその場で教えるのではなく、教わる内容によって部隊が分かれました。
これは、現在の海自教育航空集団でも同じ制度であり、予算・人員の兵力運用の柔軟性を確保するためこの方法を用いています。

<搭乗員養成制度>
昭和5年、海軍予科練習生制度にて、搭乗員の任務の性質上、特に優秀な資質と十分な教育訓練が必要な部分があります。人事行政上増加できない士官搭乗員の不足を補う優秀な下士官搭乗員を養成しました。
教育科目では、海軍予科練習生制度と海自航空学生制度ではほぼ同じですが一部異なる部分があり、予科練のときは、船乗りでこそ、飛行機の操縦士であるという考えもありました。
現在では、その訓練は無くなり、社会科学分野では、法律、経済学、防衛学、情報処理等の学習が新しく導入されました。
                   
<調査研究態勢>
横須賀海軍航空隊の新設、センピル飛行団の招へい、霞ヶ浦海軍航空隊練習部の設置を経て、昭和5年、横須賀海軍航空隊では航空術戦技(整備関係以外)に関する調査研究を、霞ヶ浦海軍航空隊では、航空術戦技(整備関係)に関する調査研究を行いました。

海自搭乗員として目指すべき姿としては、リーダーシップ(指揮統率力)、フライトスキル(飛行術科能力)、リスクマネジメント(危機回避能力)が必要です。
そしてその土台にあるのがシーマンシップです。
これらを踏まえ、一人前の海自搭乗員となっていきます。

伝統と継承ということで、他にも入隊式や朝の体操、食事、水泳や持久走なども受け継がれています。


今回、歴史を追って、海軍搭乗員の本質、教育体制、養成制度、調査研究態勢の視点より、それぞれがどのように受け継がれているかがわかりました。
海と空というコントールのできない自然の摂理に柔軟に対応するのに必要な項目ばかりだと感じました。

3回に渡り、西日本豪雨での教訓、伝統を継承する人材育成、伝統と継承と、普段は聞くことのできない海自航空のお話をしていただき、とても勉強になりました。
特に西日本豪雨では、もし同じ被害にあったとき自分には何ができるのか、伝統と継承では、未来の継承のために今何が必要なのか考えさせられました。
今後の自分の成長のために参考にしていきたいと思います。ありがとうございました。

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