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令和2年講習会(7月)

令和2年7月17日(金)、社内講習会が行われました。
講師には織原様をお招きしました。

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続き

最初に、これまでに起きた列車事故の記事をもとに、
現在の列車のシステムがどのようにして確立されていったのかをお話して頂きました。

今では考えられないことですが、戦後間もない頃の日本の列車は木造だったそうです。
そのうえ、乗客は非常時にドアを開けることができず、車両の移動や窓からの脱出もできませんでした。

そうした中で起きた事故が国鉄五大事故の1つ、桜木町事故です。
この事故は、1951年(昭和26年)4月24日、
作業員のミスによって断線した架線に列車が接触しショートしたことで車両火災が発生したものです。
上記の特徴から乗客は逃げることができず、最終的に死者106人、負傷者92人という大惨事となりました。

この事故をきっかけに車両は不燃性となり、非常用ドアコック取り付けが義務化されることになりました。

1962年(昭和37年)5月3日に発生した三河島事故は、
常盤線三河島駅構内で信号無視によって脱線した下り貨物列車に下り電車が衝突、さらにそこへ上り電車が突っ込み二重衝突となり、死者160人、負傷者296人となりました。
この事故をきっかけに自動列車停止装置(ATS)や列車無線の設置が推進されます。

また、赤羽駅では過去に保安装置の検知不良により危険な制御を行ってしまう事故がありました(赤羽対策)。レールの表面に甚だしい浮き錆できていたため、車両が検知されずに転てつ器が切り替わってしまい、脱線したというものです。
レールは非常に錆やすく、終電から始発までの数時間でもレールの表面には薄く錆が出てしまい、列車検知性能には影響しませんが車輪とレール間の電気の流れは低下します。
車輪がいくつか通過すれば錆は剥がれるため問題ありませんが、運転本数が少ない進路においては、車輪が通過してもすぐに剥がれないほどの錆がでてしまい、保安装置が検知失敗する可能性が生じます。
この教訓は後の信号保安装置の安全設計に生かされています。

この他にもいくつかの事例を紹介していただきました。
現在安心して電車に乗れているのは、過去のこうした事例から対策を積み重ねていった結果なんだと思うと、月並みではありますが、すごいなと思いました。


次に織原さんが執筆した記事から、アフガニスタンで医療施設や灌漑設備の充実に多大な貢献をした、中村哲さんについてのお話がありました。
中村さんは、少数の高価な薬を用いるよりも、病気にかからないようにする方が早いと考え、
用水路の建設に着手。その後2008年に完成させ、多くの人の命を救ったとともに、
200万人もの雇用を生み出しました。
その後、2019年12月、凶弾に倒れました。
このお話を聞き、このような方がいることを同じ日本人として誇りに思いましたし、
とても勇気をもらいました。


最後に、九州地方を中心に猛烈な雨が降り続いた令和2年7月豪雨についてのお話がありました。
この豪雨は令和2年7月3日~7月14日にかけて続き、九州地方は多大な被害を受けました。鉄道の被害も大きく、肥薩線の球磨川第一・第二橋梁等の多くの設備が冠水や流出しています。
この球磨川第一・第二橋梁は共に「単線曲弦プラットトラス(ピン結合)単線上路プレートガーダー」と言われる、全国に2つしかない珍しい形式の橋梁です。
今回の豪雨で球磨川第一橋梁は全体の3分の2が流出、球磨川第二橋梁にいたっては、完全に流出してしまっています。
そのため、現在も肥薩線の復旧の目途はたっていません。
社員日記に載せることはできませんでしたが、織原さんから見せて頂いた橋梁の写真はとても素敵なものでした。
それをこの目で見ることが叶わなくなってしまったのは本当に残念に思います。
被害に遭った地域がいち早く復旧できるよう、心よりお祈りしています。


この講習会から、鉄道を見る目が少し変わったように感じます。
今回お話して頂いた内容は知識の浅い僕にとっては少し難しい内容ではありましたが、
とても身になるお話で、聞くことができてよかったです。

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