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令和3年講習会(6月)

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令和3年6月18日(金)、社内講習会が行われました。
講師には新村様をお招きしました。

続き

"インドネシアと日本"植民地時代から独立時代へについてのお話でした。

インドネシアは世界で最も多くの島がある島国です。現在の島の数は13,466、総面積は約190万㎢です(日本の5倍)。また世界最大のムスリム人口を有する国家として知られています。約350もの民族で構成される多民族国家です。

■紀元前3世紀~

モンゴル系のマレー人が中国やベトナムからインドネシアへ移住しました。その後紀元前1世紀にはインドの貿易商達が大挙してインドネシアへ渡ったため、ヒンズー教文化と仏教文化が浸透しました。(7世紀~)壮大な建築物や寺院の多くが建造され、シャイレーンドラ王家が建造したボロブドウール、ムンドットなど素晴らしい遺跡が今でも残っています。

■13世紀頃~

シンガサリ王国が内紛で倒れた後、マジャハビト王国がジャワで台頭し、その後200年間インドネシア全域とマレー畔島の一部を統合しました。1293年、元の使者へ与えられていた侮辱により元のフビライ皇帝が激怒し、ジャワ遠征軍を派遣。その後ジャワ遠征軍はジャワ軍を撃破し、上陸しました。ジャワ遠征軍とは、福建、江西、湖広三省から精鋭2万人、船1千隻、糧食1年分からなる遠征軍です。

■15世紀頃~

マレー半島南部の港町マラッカを中心とするマラッカ王国(1402-1522)が中継貿易で繁栄しました。インドネシアのムスリム化はマラッカ王国を布教の中心として進められ、交易ルートに乗って旧来のヒンズ一教・仏教に変わり
イスラム教が島興部全域に拡大しました。

「オランダの350年の統治」

(19世紀頃)耕地面積の5分の1は強制的にコーヒー、お茶などオランダ向けの生産物を栽培させました。しかしインドが安値で購入して高値で本国に輸出したことで多くの村が崩壊し、食料自給体制は解体、餓死者が続出し平均寿命は35歳にまでに低下したが、オランダが得た利益は実に国家予算の3分の1を占めました。天然資源の開発のためにインド、中国から苦人として大量にインドネシアへ移住させました。オランダ政府は重税を課した上で、華僑が高利賃となり200%の金利を課すことになりました。(20世紀頃)320種以上の種族語をまとめた共通語を作る事を禁じました。住民に武力反乱を起こさせないように青年の体育、団体訓練は禁止し、数人の行列行進さえ禁止でした。インドネシア人ほとんどが信仰しているイスラム教を弾圧してキリスト教を広めました。ある民族の言語が国語になれば、その民族が国を支配するからどの民族の言語も国語になってはならないという政治思想の下、インドネシア語を国語として整備されました。

「日本の軍政」
 
第16軍司令官ー今村均中将(1941.11~1947.7)

"現地の人の生活を守る"を前提とした行政でした。有無を言わせずに資源を徴発していた今までと異なり、適切な価格で購入するという形を取りました。インドネシア独立の歌を歌う事を許可、その他の歴史ー民族の誇りをおろそかに扱うこともありませんでした。

「PETA郷土防衛義勇軍」

1942年末、青年道場を設立しました。ゲリラー戦、情報戦技術をインドネシア人に教育を与えました。現地住民の武装化による反日運動を危惧、戦局悪化による兵力不足の危機感など。青年道場に入るための資格は、第一:愛国心、第二:イスラム教、第三:中学校を卒業したインドネシア人でした。

「インドネシア独立戦争」

(1945.8~1949.12)
大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま。上陸する連合軍部隊に引き渡す事になり、インドネシア人の独立旅への武器引き渡しも禁止とされていました。日本に引き渡ず、インドネシア独立旅に身を殺じた元日本兵はオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死:1000人、インドネシア独立後に日本へ帰国:1000人、インドネシアに帰化:1000人でした。

今回、歴史を追って、インドネシアを独立させるために犠牲にされた事を知り、とても国を愛しているんだと思いました。
難しい内容でしたが、革命についてのお話を知ることが出来てよかったです。
(1945.8~1949.12)4年間の長い闘いでしたが、国のためにすべてをささげた姿に感動しました。
外傷的な過去にも関わらず、インドネシア人は日本に対して非常に友好的だというのが良いことだと思います。

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