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令和3年講習会(7月)

令和3年7月9日(金)、社内講習会が行われました。

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講師には安井様をお招きしました。

続き

今回は4月に行われた「犯罪科学」のテーマの続きとして、連続殺人犯「永山則夫」の一生を追いながら、
事件の顛末やその後についてお話いただきました。

〇連続ピストル射殺事件について
1968年(昭和43年)10月 - 11月にかけ、横須賀海軍施設から盗んだ拳銃を用い、4都道府県で男性4人を
相次いで射殺する連続殺人事件(連続ピストル射殺事件)を起こし、翌1969年(昭和44年)に逮捕されました。

刑事裁判では事件当時少年(19歳)だった永山への死刑適用の是非が争点となり、
永山への死刑適用の可否に関する論議のみならず、死刑存廃問題に関する論議にも影響を与えました。
永山は第一審(東京地裁)で死刑判決、控訴審(東京高裁)で無期懲役判決を受けたましたが、
最高裁での破棄差し戻し判決(1983年)を経て1990年に死刑が確定(少年死刑囚)。
1997年に死刑を執行されました。


〇小学生時代まで
永山がなぜこのような事件を起こしてしまったのかを考えるため、安井様から彼の生い立ちを話していただきました。

永山は北海道網走市呼人番外地で8人兄弟姉妹の第7子(四男)として生まれました。
父親は賭博好きでほとんど家に戻らず、母親が単身行商で得た収入のみで暮らしていたそうです。
そのため、長姉(永山生誕当時19歳)が家事を担当し、永山の面倒を見ていました。
しかし、彼女は婚約破棄や堕胎といった出来事の後に心を病み、
永山が満4歳の誕生日を迎える前に地元の精神科病院に入院します。

家事の担い手を失った母は、永山を含む4人の子を網走に残したまま実家に帰ってしまいます。
残された4人は、ゴミ箱を漁ったりして極貧の生計を立てており、この時に永山は次兄からよく殴られていたそうです。
しかし、福祉事務所からの通報により、4人は板柳の母親の元に引き取られました。

わずか4~5歳の時期に母親に家に置いて行かれるなど、幼少のころから過酷な家庭環境であり、
自分なら耐えられないと感じました。

その後、母親は網走時代同様行商で生計を立て、兄弟姉妹を育てましたが、
多忙な母は永山を構うことは出来ませんでした。
そのため、永山は頻繁に家出するようになり、一番遠いところでは北海道の森町にまで及びました。

親の愛情をもらえずに家出に至ったのは、さもありなんと感じました。


〇中学時代
中学に上がると、就職で家を出た兄に代わって新聞配達を始め、学校にはほとんど通わなくなりました。
中学1年生の冬に行方不明の父の死亡が伝えられます。
父の記憶がほとんどなかった永山は、父に抱いていた敬意を砕かれ、自殺願望を抱くようになります。

中学2年生の夏に母は子どもに告げずに北海道に出稼ぎに行き、3年生の秋には脳卒中で入院します。
この時、永山から暴力を受けていた妹や同居の姪は、母の入院している病院に逃げていたため、
約5か月間自宅には永山一人が残されました。
この間、永山は不良少年たちと交際し、自宅に彼らの盗品が隠され、万引きの手伝いや博打にも手を染めました。

永山の周りに、悪事に手を染めてしまったことを注意してくれる人がいなかったことは、素直にかわいそうだと思いました。


〇上京後
1965年3月、永山は板柳から東京に集団就職します。就職先は渋谷の高級果物店でした。
小柄な体格で目が大きいため性別に関係なくかわいがられ、果物店では接客を要領よくこなしていたそうです。
やがて新規店を先輩と二人で任されるほどの信用を得ます。
しかし、青森に次の就職勧誘に出向いた上司が板柳時代の窃盗の話を聞かされ、
その後別の上司が永山にそれをほのめかす発言をしたことで解雇されると思い込み、わずか半年で退職しました。

その後永山は、いくつかの店を転々とし、貨物船に乗り込んで南の国への密航や、
手首を切って自殺を図るなど、精神的に不安定な行動が目立ちます。
また、窃盗も繰り返しており、アメリカ海軍横須賀基地に侵入して基地内で窃盗を働き、窃盗罪で逮捕されてしまいます。

横浜家庭裁判所横須賀支部で開かれた審判の際に、次兄が訪れ、母も上京して同席しました。
次兄の激励の言葉と母の上京に刺激を受けた永山は、定時制高校への進学を決意、
牛乳配達店で働きながら勉強し、明治大学付属中野高等学校の夜間部に入学します。
入学後は学業にも仕事にも熱心に取り組み、最初の中間試験は79人中13位の成績で、演劇部にも所属しました。

しかし、睡眠時間を削っての生活による疲労に加え、保護観察官が勤務先に訪れたことで
「前科者と露見する」という被害感情を募らせ、店を辞めてしまいます。
高校の方も「保証人と連絡が付かない」という理由により半年で除籍処分となってしまいます。

その後永山は、いくつかの職を転々としながら、再び密航や自殺未遂を繰り返し、
精神的に不安定だったころに逆戻りしてしまいます。

この頃の永山は自殺を繰り返していることから、生きることに希望を見いだせずにいたように思います。
永山の周りに、絶望的な気持ちに耳を傾け受け止めてくれるような人がいれば、結果が違っていたのかな、と思います。

〇連続ピストル射殺事件
永山はその後に冒頭の事件を引き起こします。
6つの罪名(殺人罪・強盗殺人罪および同未遂罪・窃盗罪・銃刀法違反・火薬類取締法違反)で
東京地検により東京地方裁判所へ起訴されます。

裁判は弁護団の解任・辞任劇などの事情から10年にわたる長期審理となり、
逮捕から約10年後に検察官の求刑通り死刑判決を言い渡されます。

しかし、弁護団が東京高等裁判所へ控訴し、弁護団や永山と獄中結婚した妻、合同出版の元編集長らがそれぞれ永山への情状酌量を訴え、永山自身も被告人質問の際に素直に応答し、被害者遺族に対し出版された印税を贈ることで慰謝の気持ちを示すなど、心境の変化を示しました。
その結果、原審の死刑判決を破棄自判し、罪一等を減じて無期懲役判決を言い渡されます。

ところが、この判決に対しては世論からの否定的・批判的意見が強く、検察の上告を容れて無期懲役判決を破棄し、
審理を東京高裁へ差し戻す判決を言い渡されます。
差戻控訴審の結果、再び死刑判決を言い渡され、永山は同判決を不服として上告しましたが、申し立ては棄却されます。
長い審理の末、永山則夫は逮捕から21年ぶりに死刑が確定しました。

事件当時未成年(19歳)だった永山に死刑を適用するのかが争点でありました。
しかし、最終的には、未成年であっても死刑が適用されたということで、やはり連続殺人はとても重い罪であり、
犯してはならないと再認識させられました。


〇作家活動
永山はこの長い獄中生活中に作家として活動しており、小説『木橋』は第19回新日本文学賞を受賞するなど、
作家としての才覚を発揮させていました。
これらの印税は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが控訴審判決において情状の一つとして考慮され、
死刑判決破棄につながったそうです。

罪を犯した後に作家として一定の地位を獲得するまでに至った永山は、
普通の人生を歩んでいれば作家としてもっと大成していたのかもしれないな、と思いました。


〇成人年齢引下げと少年法適用年齢について
成人年齢が2022年4月1日より20歳から18歳に引き下げられます。
それに伴い、「20歳未満」としている少年法の適用年齢も引き下げられると考えていましたが、
どうやら罪を犯した18、19歳を「特定少年」として、罰則が1年以上の懲役または
禁錮にあたる強盗罪や強制性交罪などが逆送の対象になるそうです。

これは18、19歳の処遇を17歳以下と分けて成人に近づけつつ、
刑罰よりも少年の立ち直りを重視する少年法の理念を考慮した結果だそうです。
その一方で、たばこやお酒は非行防止や健康面への配慮から、20歳からと変わっていません。

成人として認められつつも、一部では制限がある18、19歳は特殊な立ち位置にいると感じました。


〇事件を引き起こした要因
永山は少年時代に両親からのネグレクトにより、愛情を受けられず、自尊感情や人生に対する希望を持てずにいました。
そのため、無理な努力、過度な被害妄想からストレスをため続け、それらが爆発したのだと思います。
しかし、控訴審をされるころ(逮捕されて10年)には自らを客観的に見つめる余裕が初めて生じ、自分が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自分に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方を示したそうです。

こういったことから、環境が違っていればこのような事件は起きなかったと考えます。
このような悲劇をなくすためにも、貧困や家庭問題を減らしていくことが大切だと思いました。

今回は永山の過酷な生い立ちと殺人に至った背景、未成年犯罪の今後について学びました。

この講習を受ける前までは、連続殺人犯はその人の考えや性格そのものが悪に染まっているために引き起こされ、
疑う余地もなく当人が100%悪いと考えていました。
しかし、犯人の生い立ちなども事件を引き起こす要因だと知り、
人ではなく環境が事件を引き起こす、具体的に永山の場合は家族からの愛情をあまり受けられなかったことや、
貧困による過酷な少年時代が事件を引き起こしてしまうのではないかと考えました。
これからは、もし友人に永山のような人がいたら、失踪したとしても追いかけて何故そうしたのかを聞き、
悩みを聞くことでストレスをため過ぎないようにしてあげたいです。

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